浦和地方裁判所 平成3年(ワ)72号 判決 1993年1月29日
原告
吉田浩久
同
吉田悦久
同
吉田公子
右三名訴訟代理人弁護士
平林良章
被告
株式会社伊勢丹
右代表者代表取締役
小菅国安
右訴訟代理人弁護士
畠山保雄
同
明石守正
同
武田仁
同
田中登
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告吉田浩久に対し、金一億九三二八万二二八六円及び内金一億八〇六八万二二八六円に対する平成元年三月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告吉田悦久及び同吉田公子それぞれに対し、金二二〇万円及び内金二〇〇万円に対する平成元年三月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する被告の答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
原告吉田悦久(以下「悦久」という。)と原告吉田公子(以下「公子」という。)は夫婦であり、原告吉田浩久(以下「浩久」という。)はその間の長男である。
被告は、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を所有し、本件建物において百貨店を営んでいる。
2 事故の発生
S(当時二二歳、以下「S」という。)は、平成元年三月一四日午後三時三〇分ころ本件建物の屋上西側から市道上に飛び降り、たまたま乗用車に乗って市道に停車していた原告浩久の運転席上に落下し、乗用車の屋根がつぶれた衝撃で原告浩久は傷害を負った(以下「本件事故」という。)。
3 原告浩久の受傷内容、治療経過及び後遺障害
(一) 原告浩久は、本件事故により頸椎損傷等の傷害を負い、次のとおり入院して治療を受けた。
(1) 済生会川口総合病院
平成元年三月一四日から同年五月二六日まで
(2) 会田記念病院
平成元年五月二七日から平成二年四月二六日まで
(3) 埼玉県身体障害者リハビリテーションセンター
平成二年五月九日から平成三年一一月まで
(二) 原告浩久の本件事故による右傷害の症状は、平成元年四月二一日両上肢・両下肢の用を全廃する後遺症(自動車損害賠償保障法施行令別表等級(以下「自賠等級」という。)一級に該当)を残して固定した。
4 被告の責任
(一) 工作物の保存の瑕疵による責任(民法七一七条)
(1) 被告は、本件建物の屋上(以下「本件屋上」という。)に娯楽設備を設けて、大人から幼児まで不特定多数の利用客に開放している。
利用客の中には通常の利用方法に従わない者もいることが予測され、不足の事故が発生する危険もあるから、事故防止のために屋上に専属の保安要員を配置して常時監視の体制をとるべきであり、これを欠くときは保存に瑕疵があるというべきである。
(2) しかるに、被告は専属の保安要員を屋上に配置しなかった。そのために、Sが本件屋上の外周に設置されているフェンスを越えてその外側に侵入して飛び降りるのを未然に防止することができず、本件事故が発生した。
(3) 従って、本件屋上の保存には瑕疵があり、被告はその所有者として右瑕疵により発生した損害を賠償すべき責任がある。
(二) 使用者責任(民法七一五条)
(1) 被告が警備を委託している川上興業株式会社(以下「川上興業」という。)の関口士朗巡視員(以下「関口」という。)は、本件事故の直前に、本件屋上の巡回警備中、立ち入り禁止となっているフェンスの外側にいて市道を覗き込んでいたSに気付いた。
(2) この場合、警備員としては、不審者かどうかを確認し、不審者であるならばこれを誘導して屋上から排除し、本件事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、関口はこれを怠り、不審者であることも確認せず、ただ「危ないから戻りなさい。」と注意しただけでその場を立ち去った過失により本件事故を発生させた。
(3) 被告は、被用者である巡視員及び関口のような委託会社の巡視員を統括して警備にあたっていたものであり、関口は直接間接に被告の指揮監督に服していたのであるから、関口も被告の被用者と同視しうる関係にある。
(4) よって、被告は民法七一五条一項の法意により、本件事故に基づく損害の賠償をすべき義務がある。
(三) 不法行為(民法七〇九条)
(1) 高層建物を所有し、その屋上に種々の設備を設けて不特定多数人に開放している者は、自殺者を想定した警備や取決めをすべき注意義務がある。
(2) 従って、被告は本件屋上の外周にフェンスを設置しただけでは足りず、自殺のおそれのある者がこれを乗り越える可能性もあることを予測して屋上に常時警備員を配置し、自殺者に対する具体的な警備上の指示を与えるべきであったにもかかわらずこれを怠った。
(3) Sは本件事故の直前、本件屋上を行ったり来たりした後一度屋上から降りて、それからまた上がってきて再びフェンスの辺りを行ったり来たりしていたのであるから、もし屋上に常時警備員がいればこの段階で不審な行動をしていることに気付くことができ、フェンスを乗り越えるのを阻止することができた。
(4) 被告が、自殺防止のための具体的な指示を日頃から警備員に与えていれば、関口がフェンスの外側にいるSを発見した際、不審者かどうか確認し、不審者であれば屋上から排除する措置をとるなどして、本件事故を防止することができた。
5 原告浩久の損害
総合計金二億〇七一四万六五九四円
(一) 治療費
合計金四四九万四二三二円
(1) 済生会川口総合病院分
金四四一〇円
(2) 会田記念病院分
金四三四万五七五二円
(3) 埼玉県身体障害者リハビリテーションセンター分(但し平成二年一一月二六日まで)
金一四万四〇七〇円
(二) 入院中の雑費
合計金八二万九四七二円
(1) 済生会川口総合病院関係
金八万八八〇〇円
入院期間七四日について一日当たり一二〇〇円の割合で計算した諸雑費
(2) 会田記念病院関係
計四七万三〇七二円
イ 入院期間三三六日について一日当たり一二〇〇円の割合で計算した諸雑費
金四〇万三二〇〇円
ロ テレビリース代
金六万九八七二円
(3) 埼玉県身体障害者リハビリテーションセンター関係
金二六万七六〇〇円
平成二年一二月三一日までの入院期間二二三日について一日あたり一二〇〇円の割合で計算した諸雑費
(三) アキシール(小便袋)代
合計金一四一二万八〇九八円
(1) 既出分(平成四年八月分まで)
金九三万八四五〇円
(2) 将来分
金一三一八万九六四八円
原告浩久は小便漏防止のためアキシールという器具を一生装着していなければならず、これは毎日取り替える必要があり、一日あたりの費用は一五八〇円である。
平成四年九月一日の時点の平均余命四三年一〇か月について、一日あたり一五八〇円の割合による損害を新ホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息を控除して現価に引き直して算出すると金一三一八万九六四八円となる。
(四) 装具代
金三〇万六二八四円
(五) 車椅子代
金三四万五二四〇円
(六) 貸ベッド代
金一三万八〇二〇円
埼玉県身体障害者リハビリテーションセンター入院時には、ときには帰宅が許されるので、その際に自宅には特殊なベッドを借りて備えつけておく必要があった。
(七) 家屋改造費
金三〇三〇万円
(八) 交通費
合計金一二六万五五八〇円
(1) 寝台自動車代
金四万二五四〇円
済生会川口総合病院より会田記念病院に転院のために要した費用。
(2) 付添交通費
金一二二万三〇四〇円
会田記念病院に入院中、原告公子及び広本しず江が付添のため毎日交代で通った三三六日について、一日あたり浦和、守屋間の往復二〇八〇円と守屋、会田記念病院間の往復(タクシー)一五六〇円の計三六四〇円の割合で計算した交通費
(九) 医師等に対する謝礼
合計金八八万円
(1) 済生会川口総合病院
金三〇万円
(2) 会田記念病院 金五八万円
(一〇) 付添費
合計金四一四七万二四四七円
(1) 入院中付添費
金一八四万五〇〇〇円
済生会川口総合病院と会田記念病院に入院中原告公子及び広本しず江が付き添った四一〇日について、一日につき四五〇〇円の割合で計算した付添費
(2) 将来の看護費
金三九六二万七四四七円
原告浩久は自賠等級一級の後遺障害のため原告公子などの付添い看護なくしては終生日常生活ができない。
埼玉県身体障害者リハビリテーションセンターを退院予定の平成三年六月二二日の時点の平均余命を47.86年とし、一日につき四五〇〇円の割合の看護費を新ホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息を控除して現価に引き直して算出すると金三九六二万七四四七円となる。
(一一) 休業損害
金二八万〇二八八円
原告浩久は株式会社高橋保険サービスに勤務していたが、本件事故により平成元年三月一四日入院したため、休業を余儀なくされたので、症状固定時(平成元年四月二一日)までの三八日間の収入を失い、昭和六三年度の収入は二六九万二二七九円であるので、右休業期間三八日について一日あたり七三七六円の割合により算出した休業損害
(一二) 逸失利益
金七九七二万六九三三円
原告浩久は症状固定時二六歳であったが、前記一3二の後遺障害により平均的就労可能年齢である満六七歳まで今後四一年間を通じ、その労働能力の一〇〇パーセントを喪失した。
平成元年賃金センサスによれば、同年における二五歳から二九歳までの男子労働者の平均年間給与額は金三六二万八九〇〇円であるから、右金額を基礎として、原告浩久の前記四一年間の逸失利益を新ホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息を控除して現価に引き直して算出すると金七九七二万六九三三円となる。
(一三) 慰謝料
合計金二〇三八万円
(1) 傷害による慰謝料 金三八万円
事故当日より症状固定時まで三八日間入院したが、重傷であり、一時は生命も危ぶまれたので一日あたり一万円の慰謝料が相当である。
(2) 後遺障害による慰謝料
金二〇〇〇万円
自賠等級一級の後遺障害のため終身介護を必要とする生活を送らなければならない精神的苦痛を考慮すれば二〇〇〇万円が相当である。
(一四) 弁護士費用
金一二六〇万円
6 原告浩久の損害の填補
金一三〇〇万円
原告浩久はSの父親から、平成元年三月一八日から平成四年一〇月三一日までの間に合計金一三〇〇万円の支払いを受けたので、前記損害の一部が填補された。
7 原告悦久及び原告公子の損害
総合計各金二二〇万円
(一) 慰謝料 各金二〇〇万円
原告浩久は原告悦久と原告公子との間の唯一の男子であり、将来は経済的にも精神的にも右原告らの支えとなるべく期待していたのに、本件事故によりむしろ原告悦久は原告浩久の経済的な生活の面倒をみなければならない立場になり、原告公子は終生同人の介護を強いられることになったのであり、その精神的苦痛を慰謝するに足りる金額はそれぞれ金二〇〇万円を下らない。
(二) 弁護士費用 各二〇万円
8 結語
よって、
(一) 原告浩久は被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として前記5の総損害から同6の填補額を控除した金一億九四一四万六五九四円のうち金一億九三二八万二二八六円及び内弁護士費用を控除した金一億八〇六八万二二八六円に対する不法行為の日である平成元年三月一四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(二) 原告悦久及び原告公子は被告に対し、それぞれ不法行為に基づく損害賠償として前記7の総損害金二二〇万円及び内弁護士費用を控除した金二〇〇万円に対する不法行為の日である平成元年三月一四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求の原因に対する被告の認否
1 請求の原因1(当事者)及び2(事故の発生)の事実は認める。
2 同3(原告浩久の受傷内容、治療経過及び後遺障害)の事実は知らない。
3 同4(一)(工作物責任)の事実のうち、被告は屋上に娯楽設備を設けて大人から幼児まで不特定多数の利用者に開放していたことは認め、その余は否認する。
4 同4(二)(使用者責任)の事実のうち、被告が警備業務の一部を委託している川上興業株式会社の関口が北側のフェンス外側にいるSに気付いたこと及び同人に「危ないから戻りなさい」と注意したことは認め、その余は否認ないし争う。
5 同4(三)(民法七〇九条の不法行為責任)の事実は否認する。
6 同5(原告浩久の損害)の事実は否認する。
7 同6(損害の填補)の事実は知らない。
8 同7(原告悦久及び原告公子の損害)の事実は否認する。
三 被告の主張
1 工作物の保存の瑕疵による責任について
(一) 本件屋上の状況
本件屋上の一部は一般客に開放しているが、一般客に開放している部分の外周には鉄製フェンスが設置してあり、そのフェンスの高さは3.1メートルであり、下から2.2メートルの部分に五七センチメートルの長さの忍び返しが三〇度の上向きの角度でフェンス全体に設置してある(以下「本件フェンス」という。)。
本件フェンスの外側へ出るためには、非常階段へ通ずるもの以外の出入口が二か所あるが、そのいずれもが常に施錠により閉じられており、容易にフェンスの外側に出ることができないようになっている。
本件事故現場付近の本件フェンスの外側は、高さ六五センチメートルの外壁によってかこまれており、フェンスと外壁までの距離は1.1メートルあり、一般の人が立ち入ってもそれほど危険を感じさせるような場所ではない。
(二) 本件屋上の警備の状況
本件屋上については、被告の保安室の社員五名と、被告が警備業務を委託しているセコム株式会社(以下「セコム」という。)の社員三名が巡回警備を行っており、また、川上興業も独自の判断でその社員に屋上の巡回警備をさせていた。
本件事故当日は、三〇分に一回くらいの頻度で右社員等のうち、だれかが本件屋上の巡回警備にあたっていた。
(三) 本件事故の特殊性
本件事故当日、Sは確固たる自殺の意思をもって、本件フェンスを乗り越え、本件屋上から飛び降りたのであるが、これは被告には全く予期し得ない特異なものであり、このような特異な場合までも予測し、常時監視体制をとらなければならないというものではない。
本件屋上には利用客が安全に利用できるように本件フェンスを設置しているのであり、更に巡回警備によって通常の利用客の安全が十分に図りうるものであるから、本件屋上の保存に瑕疵はない。
2 使用者責任について
(一) 関口の過失の不存在
本件事故当日、本件建物には改装工事及び非常階段のペンキ塗り替え工事のため約一八〇名の作業員が入っており、関口は、本件フェンスの外側にいるSを発見したとき、①Sが紺色の作業服を着ていたこと、②当日本件建物には改装工事等のため約一八〇名の作業員が入っていることを知っていたことから、Sをこれら工事の作業員と判断した。
そして、関口は、本件フェンスの出入口が施錠されていることから、非常階段から手すりを乗り越えてきたものと思い、非常階段の方に戻るよう「危ないから戻りなさい。」と注意をした。その結果、Sは非常階段の方に戻りかけたので、関口はフェンス外側の者が成人でもあるし事故発生の危険性はないと判断し、巡回警備に戻ったのであり、何ら落ち度はない。
しかも、Sは自殺の意思で本件フェンスを乗り越えたのであり、関口から注意を受けた際も自殺の意思を翻意するどころか一層その意思を強固にし、注意を受けてからそれほど時間をかけずに飛び降りたのであるから、関口がSを発見した際、関口がいかなる方法をもってしてもSによる飛び降り事故を阻止することはできなかった。
(二) 使用者性の不存在
本件事故当時、被告は川上興業に対して警備業務のうちの一定のポスト業務(一か所にとどまって監視する仕事)を委託し、川上興業は被告に対し独立した地位をもって、自己の裁量でその受託業務を行っていたものである。
関口は川上興業の社員として、その警備業務について川上興業のチーフが作成した勤務表に従ってこれを行い、その具体的な指示は川上興業の社員である班長から出されていたのであり、被告の保安室長が川上興業の警備内容について具体的指示をすることはなかった。
したがって、被告には関口に対する指揮命令監督関係は何ら存在しない。
第三 証拠関係<省略>
理由
一請求の原因1(当事者)、2(事故の発生)、3(原告浩久の受傷内容、治療経過及び後遺障害)について
右請求の原因1及び2についてはいずれも当事者間に争いがない。
また、原告浩久及び同悦久各本人尋問の結果及び<書証番号略>によれば、請求の原因3の事実が認められ、これに反する証拠はない。
二請求の原因4(被告の責任)について
1 責任判断の前提事実
<書証番号略>、証人渡辺洋一郎、同須甲朝三郎、同田村弘一の各証言及び検証の結果によれば、以下の各事実(争いのない事実を含む。)が認められ、これに反する証拠はない。
(一) 本件屋上の状況
(1) 本件屋上は、別紙屋上見取図(一)のとおりゲームコーナーやペットショップ等が設けられ、その大半の部分が大人から幼児まで不特定多数の利用者に開放されている。
(2) 右の不特定多数の利用客に開放されている部分の外周は、屋上からの転落を防止するために、別紙屋上見取図(二)の破線部分に金属製フェンスが設置されており、その他の部分は、建造物等によって囲われている。右フェンスの構造は、高さが約3.1メートルの棒状のものに下から約2.2メートルの位置で長さ約五七センチメートルの忍び返しを水平線から約三〇度上向きの角度で結合したものが約一〇センチメートルの間隔で並んでおり、全体の形状は別紙図面(三)のとおりである。
(3) 本件フェンスの外側は高さ約六五センチメートル、厚さ約四〇センチメートルの外壁によって囲われており、フェンスから外壁までの距離は約1.1メートルあり、清掃等のため人が通ることができるようになっている。
(4) 本件屋上より本件フェンスの外側に出るための出入口は二か所あるが、いずれも常に施錠されている。また、本件建物の一階外部に通じている非常階段が本件屋上まで続いており、そこからは高さ一メートル位の手すりがあるが、これを乗り越えれば本件フェンスの外側に出られる。右非常階段への本件建物の各階の出入口は本件事故当時施錠されていた。
(5) 本件事故当日、本件建物には、改装工事及び非常階段のペンキ塗り替え工事のため、約一八〇名の作業員が入っており、その内三名が非常階段のペンキ塗り替え作業に従事していた。
(二) 本件屋上の警備の状況
本件屋上については被告の保安室の社員五名と、被告が警備業務を委託しているセコムの社員三名が巡回警備を行っており、ポスト業務の委託を受けていた川上興業も独自の判断で屋上の巡回警備をしていた。セコムも川上興業もそれぞれ勤務表を作成し、被告の保安室長に届けていた。
本件事故当日は大体三〇分に一回くらいの頻度で、これらの社員のうちいずれかが屋上の巡回警備を行っていた。
(三) 本件事故の特異性
(1) Sは、本件事故の三年程前に精神分裂病で約七か月間入院した病歴がある。
(2) Sは本件事故当時、NHK放送学園の四年生で大学受験中であったが、かねてより芸能界に入りたいとの希望を抱いていたものの思うにまかせず、また、そのころ受けたかった針の治療を両親が許してくれなったこと等不満がつのっていたばかりでなく、化物や蛇に追われる夢を見るなどしていたことから厭世的になり、高い所から飛び降りて死のうと決意して本件事故当日本件建物の屋上に上った。その際同人の自殺の決意は相当強固なものであった。事故当日の同人の服装は、緑色のスラックスに紺色のジャンパーであった。こうして同人は、本件フェンスの辺りを行ったり来たりした後一度屋上から降りて隣接のビルへ行ってみたが、ドアが閉まっていて屋上に出られなかったので再び本件屋上に戻ってきた。
(3) Sは、別紙屋上見取図(二)①の地点で本件フェンスの横棒に足をかけ、忍び返しに手をかけてよじ登り、一分くらいで本件フェンスを乗り越えた。
その後同人は、本件フェンスと外壁との間の狭い通路を行ったり来たりしていたところを関口に発見され、「戻りなさい」等の注意を受けたが、戻ったら後で怒られるのではないかと思うと余計に追い詰められたような気分になって前記自殺の決意が一層高まり、その後一分くらいで別紙屋上見取図(二)②ないし③の辺りから下の市道に向かって飛び降りた。同人はこれによって負傷したが、命に別状はなく、現在精神分裂病により入院中である。
(4) その直下の市道上には、たまたま原告浩久が被告(百貨店)に注文しておいた時計を取りに行こうとして乗用車を運転し、同店の駐車場に入るため停車していた。Sは右乗用車の屋根に落下し、前記のとおり本件事故が発生した。
2 被告の責任についての判断
(一) 工作物の保存の瑕疵による責任
(1) 一般に高層建物の屋上は、同所から人が転落することを防止するために相応の配慮がされるべきであるが、特に本件建物のように高層であり、かつ屋上に娯楽設備を設置するなどして大人から幼児に至るまで不特定多数の者に開放している屋上は、利用者が幅広い層にわたることを考慮して、利用状況等諸般の事情から通常予測され得る範囲の危険につき、その発生を防止するための保安上の設備、機能を備える必要がある。そしてこのような設備、機能を欠く場合にはこの種の工作物として通常備えるべき安全性を欠いているものとして、民法七一七条の「瑕疵」があるものと解すべきである。
しかしながら、右の危険とは前記のような具体的状況下において通常予測されるものをいうのであり、これを利用する者の異常又は特殊な行動によって生ずる危険にも対処しなければならないほど絶対的かつ理想的な安全が要求されているものではない。
(2) これを本件についてみるに、本件屋上の構造及び警備の状況は前記認定1(責任判断の前提事実)(一)、(二)のとおり、高さ約3.1メートルのフェンスがあり、同フェンスには忍び返しが設置してあること、本件屋上よりフェンスの外側に出る二か所の出入口は常に施錠してあること、一階外部に通じている非常階段から屋上に上ってきた場合でも高さ約一メートルのフェンスを乗り越えなければならず、しかもその非常階段への本件建物各階の入口は常に施錠してあり、容易には屋上まで上れないこと、被告会社の社員等が交代で本件屋上の巡回警備を行っていたこと等を総合すると、利用者の通常予測され得る危険については、その発生を防ぐための安全設備を備えていたものというべきであり、本件屋上について、フェンスの高さをそれ以上にするとか専属の保安要員を配置して常時監視体制をとらなければならないとまではいえず、これをしなかったからといって、本件屋上の保存に瑕疵があるということはできない。
本件事故は、自殺するために右忍び返しつきの三メートル余のフェンスによじ登って乗り越えるというSの前記認定1(責任判断の前提事実)(三)の特殊な行動に起因するものであって、本件屋上の所有者である被告の通常予測できない状況により発生したものといわざるを得ない。
(3) よって、原告らの本件屋上の瑕疵に関する主張は理由がないから、被告に対して本件建物の所有者としての責任を問うという原告らの主張は理由がない。
(二) 使用者責任
(1) 前掲乙号各証及び証人関口、同Sの各証言によると、関口は、本件事故の直前に本件屋上の巡回警備を行っていた際、本件フェンスの外側にいるSを発見したこと、関口は本件事故当日本件建物内には改装工事及び非常階段のペンキ塗り替え工事のため作業員が約一八〇名入っていることを知っていたため、Sの服装等からその作業員が非常階段から高さ一メートル程度のフェンスを乗り越えて来たのだと思い、特に不審者かどうか確認しなかったこと、しかし、関口はたとえ作業員でもフェンスの外側を歩くのは危険だと思い、Sに対し「戻りなさい」と注意をし、Sが非常階段の方に戻りかけたので大丈夫だと思って巡回警備に戻り、その後の同人の行動については観察していないことが認められる。
更に、証人田村弘一の証言によると、本件事故当日の改装工事は大掛かりなものであり、大工工事、塗装工事、空調関係等業種によって作業員の服装はまちまちであったが、紺色の作業服を制服としている業者もあったこと、同人が事故直後にかけつけてSを見たときも、その服装等から作業員だと思ったことが認められる。
(2) 原告は、関口にはSを発見した時点で不審者であるかどうか確認し、不審者であるならば誘導して屋上から排除すべき義務があると主張する。
しかしながら、既に認定のとおり、本件事故当日は改装工事及び非常階段のペンキ塗り替え工事のため本件建物に約一八〇名の作業員が入っており、その作業員の服装は統一されていなかったこと、非常階段からは高さ約一メートルの手すりをのりこえれば本件フェンスの外側に出られること、本件フェンスの外側と外壁との間の距離は1.1メートルあり、清掃等のために人が通ることができ、通常の大人であればそれほど危険とはいえないこと、Sの当日の服装は緑色のスラックスに紺色のジャンパーであり、事故直後にかけつけた田村弘一も作業員だと思ったことからすると、その他特に外観から異常を感じさせるような特別な事情がない以上、関口がSを発見した際作業員だと誤解し、特に不審者と思わなかったとしてもやむを得ないものと考えられ、単に危険だから戻るように注意を促すにとどめたことをもって同人に過失があったとはいえない。
(3) なお、付言するに、Sは前記認定のとおり相当強固な自殺の意思を懐いて本件屋上に上ったのであり、フェンスの外側にいるところを関口に発見されて戻るように注意を受けたことによって自殺の決意が一層高まり、その後一分くらいで本件屋上から飛び降りて本件事故が発生したことからすると、関口がSを発見した際には、両者の間にフェンスが介在するなどその場所的構造的関係からみて、原告の主張する注意義務を尽くすこと、即ち関口がSを不審者であるかどうかを確認し、不審者であるならばこれを誘導して屋上から排除することはできなかったものと言わざるを得ない。
(4) ところで、使用者が被用者の加害行為について責任を負うのは、被用者の行為が不法行為としての要件を備える場合でなければならないと解されているところ、以上のとおり関口の所為について過失があったとはいえないのであるから、同人に不法行為は成立しない。したがって、被用者である関口の所為につき、被告に対し、使用者としての責任を問う原告らの主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
(三) 民法七〇九条の不法行為責任
原告は、高層建物を所有し、その屋上に種々の設備を設けて不特定多数人に開放している者は、自殺者を想定した警備や取決めをすべき注意義務があるとするが、一般にこのような場合を想定して積極的な措置を講じなければならない義務があると解することはできない。仮にこの点に関する原告の主張事実を前提としても、前記認定の本件屋上の状況からすれば、被告において原告主張のような措置を講じなければならない特別の事情があったものということはできない。
よって、被告が自殺者を想定した警備や取決めをしていなかったからといって過失があったということはできない。
したがって、被告に対し民法七〇九条の不法行為責任を問う原告らの主張は理由がない。
3 以上のとおりであるから、請求の原因4の主張は採用できない。
三結論
以上述べたところによって明らかなとおり、原告浩久は、何の落度もないのにたまたま本件事故に遭遇したため、生涯に亘り両上肢・両下肢の用を全廃するという重大な傷害を負ったものであり、その結果は誠に悲惨極まりなく、原告らの無念さは計り知れない。しかし、二で述べたとおり、被告に不法行為責任を認めることはできない。
よって、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官清野寛甫 裁判官田村洋三 裁判官香川美加)
別紙物件目録
家屋番号 一一五番一二
一、鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下三階付七階建店舗
床面積
一階 3961.29平方メートル
二階 4067.30平方メートル
三階 3992.63平方メートル
四階 3731.15平方メートル
五階 3606.59平方メートル
六階 3606.59平方メートル
七階 3611.19平方メートル
地下一階
4345.18平方メートル
地下二階
4372.61平方メートル
地下三階
4247.63平方メートル
別紙屋上見取図(一)<省略>
別紙屋上見取図(二)<省略>
別紙図面(三)<省略>